「女性的な文体」というものをはじめて意識したのは、翻訳ではあるのですが、アン・モロウ・リンドバーグのエッセイ「海からの贈りもの」を読んだときでした。
具体的にどう違うのか、と言われても難しいのですが、雰囲気というか、独特の「しなやかさ」のようなものがある。
文体は、「文」章の「体」と書くように、とても身体的な側面がある、とぼくは思います。
たとえば、呼吸ひとつとってもそうですね。脳内で音読したり、実際に声に出してみるとき、息継ぎの気持ちいいポイントは違う。そして、そのポイントに合わせて句読点は打たれる。
身体は、確かに十人十色ですが、あくまで一般論として、男女には差異がある。その違いが、計量のできない部分として表出してるような気がするんです(歌声に近いかもしれません)。
「海からの贈りもの」を読んで以来、友だちのブログやメールを読んでいても、やはり独特の「ある感じ」が漂ってくる。
これは本当に表現するのが難しいんです。「自然」や「愛」を言葉で説明するのと同じくらいに、表現のあいだをすり抜ける。
「なんとなく」なんです。そして、それはとても羨ましいものでもありました。ぼくには真似しようと思っても、猿真似にもなりません。
でも、たとえば、そういった人たちが、「社会」に認められようと思ったら、彼女たちの文体が一気に崩れてしまうんです。あの見慣れた(そして不慣れな)、「男性的」、「理性的」、要するに「人工的」な文章になる。
たぶん、これは個人的な印象や感覚なのですが、そういった文章の特徴の一つは、「笑われる」ことを、ひどく恐れていることです。
「しなやかさ」の欠片もない。肩肘はって、失敗を恐れる。間違えたり、根拠が薄弱だといっせいに叩かれることを恐れる。恥をかくことを恐れる。
笑われることを恐れる。
だから、警戒心に満ちた、「隙のない文章」になってしまう。
しかし、実際、長い目で見れば、それは武道がそうであるように、隙を見せないように力が入った身体は、逆に隙だらけなのです。まったく柔軟性もしなやかさもない。
だからこそ、そんな女性的な文体を活かした文章というものが、論文にしても、ビジネスの現場でも、一定の地位を占めるようになればいいのに、と思います。
女性の社会進出が叫ばれ、そして実際に少しずつ女性が社会に出るようになったいっぽうで、その競争社会の過酷さに、やはり主婦がいい、という女性も多いそうです。
そしてその競争のなかで闘って、勝ち抜いた一握りの女性は、すっかりその「ルール」を身体に染み込ませてしまってるような気がします。
もう、かつての「しなやかさ」のある文章は書けない。
ぼくは、それは少し違うんじゃないかと思うんです。そんな風に社会進出して、「男まさり」と表現されてしまっては、結局取り込まれてしまってるわけで、この狂った世界を正すことができない。
相変わらず、「女性」の社会進出は果たせない。
授業中、あるジェンダー論の教授と論争になったとき、彼女は感情的に「この世界でわたしがどれほど苦労してきたか、あなたは知らないでしょ!」と言っていました。
その気持ちもわかるんです。「しなやかさ」を捨てなければ、その場所に立てない。それでも…、とぼくは思う。
闘わなければいけないのは、その世界「で」ではなく、その世界「と」だったんじゃないでしょうか。
言葉で説明しきれないところに真実は潜んでいます。そして、その真実には、強張った「体」では決して届かないのです。
もちろん、それもこれも一般論です。便宜的な、「女性的」という定義に過ぎません。どちらの優劣がどうということもなく、要するにバランスの問題であり、あらゆる人間のなかに「アダム」と「イヴ」が共存している、という前提のお話です(「こういうところ」ですね)。
